昭和40年01月28日 朝の御理解



 信心が真実自分が助かる。自分の心が救われる。ひいては、それが家族の助かりとなり、社会の助かりともなる。信心によって頂く心の光が、灯火が、一家を明るくするだけではなくて、社会を、人の世を明るうしていくという事。自分の小さい願いが、だんだん育っていって、それがまあ、ここの広前でいうならば、小倉の初代の桂先生の、御請願の中にあるように。「どうぞこの有り難い教えを、この有り難いお道を、世界万国に広めずにやまん」という、
あのご精神。それがひいては、まあいうなら現四代様。三代様。そして二代様。そして教祖の神様の願いがこの地上になっていく。究極が天地の親神様のご悲願が、達成されていく、成就されていく、というようなことになって来る、信心でなからなければならん。自分は、気が付かんでおりますけれども、神様はそういう、意味合いにおいて、お育てを頂いておるのでございます。
 初めから社会の、又は、世界のと、世界万国のといったような天地の親神様の願いといったような思いを持って、信心を始める者はないでしょうけれども。いつの間にかそういうことに成らされておる。いつの間にかそういうことの、御用の中にお引回しを頂いておるということ。そこで、そこの自覚に立たせてもろうて、そういう大きな願い、そういう働きに、その一助とも。
 一翼ともならせて頂けるだけのおかげが頂きたいというお願い。そういう一つ信心を皆さんが、そういう信心に縁を頂き、道を求めておられるのでございますから。そういうおかげに育っていっておるということを、有り難いと思わなければならん思うですね。決して皆さんの一人の助かりの為じゃないです。「いいえ、私の家が、いいえ、私のしておる商売が、もう繁昌さえすれば、他のことなんか。」初めはそうかも知れません。そして、またそういうおかげ頂きます。
 そうしていくうちにです、いつの間にかそれがそういう信心がしみこんでまいります。いつの間にか分かろうとするのでなくて、分からされていきます。でなからなければ私は信心、宗教の真の生命といわれておる氏子も助かる神も立ち行く。神も氏子も立ち行けば、神様も立ち行ってくださる神人共栄のことにはなってこないと思うのですね。今朝方から私ずっとその長男のことを、御神前に出てから思わせて頂いた。
 はあ、もうほんとに、あの人が御本部に修行にやらせて頂いて、引き続き、もうやんがて二年の歳月が流れる。ほんに早いもんだ。満十九歳。二十歳。その二年間が、そういう本人が気が付いておるかおらんか知らん けれども、そういうことにならせられて来ておるということがです、いつの間にか、そんな間違いのない神様の働きの中に合流させられておる。有り難いことに、神様から正しくお守り受けて、正しく育てさせて頂いておるということが有り難いなあと思うた。
 一番向こうの端にお供えしてありますね。あれは京都の千枚漬けという漬物なんです。あれはなんでしょうかね。聖護院大根でしょうか。座りかぶのように、あの上の絵についておりますようにね、大きな座りのよい大きな大根。あれが姿のままこの一枚、なんであんなに綺麗にしてあるのでしょうかね。もう紙の様に薄くきって、そのままが姿のまま漬け込んでございます。
 これは聖護院というのは、「正しくまもられておる」ということに頂かなければならないでしょうね。正しく守られておる。しかも一枚一枚。いうなら日々日々。言うならば刻々刻々を、神様お守りの中に、お育てを頂いておるということ。人知人力の成すべきことではない。神様の正しいお守りの中に、おかげを頂かせて頂いておるということ。誰がどう言うたわけではないのですけれども、勝彦の場合、満十歳の時から、一時間ずつじゃあるけれども、御結界奉仕をさせて頂いております。
 もう本当に可愛らしいものでした。やっぱりあれで羽織袴のお供えを頂きましてね。そしていうならなかなか一時間じゃあるけれどもおかげ頂いて、親戚に参りましても「僕は、御結界のご用があるけに泊まられん」ちゅうてから帰っておりました。そして丸もう十年間に成るわけです。自分で気がついとるとは思われません。やはり神様のお育ての中におかげを頂き、学院に入らせて頂くというようなことでも、実に神ながらなお引きまわしを頂いてから、学院卒業ができる。
 自分が思うてもいなかった親教会の修行が引き続いてなされておる。その中にお道の信奉者としての、また取次者としての、それこそあの千枚漬けじゃないですけれども、もうきざまれるように、日々その信心の修行をさせられておるということ。もの心付いて学院に勿論入ったございますけれども、折角お取次者としての、おかげを頂かしてもらわなければならんために、先ず、自分の助かりを願わなければならん。
 昨日も、福岡の末永さんが参ってみえられてから、「今日は、久留米の共励会だからおかげ頂いた。最近桜井先生が、ああして神様からいろいろとお知らせを頂かれる。もうそれを羨ましゅうてたまらん。一緒に椛目にご縁を頂いた。いやむしろご縁を頂いたのは、私が先なのに、桜井先生の方が、一足先にああした御霊徳に触れていかれる。一生懸命そのことを思うておりましたら、最近私も段々お知らせを頂くようになった。けれどもそれは、その現れ方はやはり違うけれども、ほんとに有り難いことだと。
 そこで愈々先生の教導を受けなければ分からない事ばっかり。分からない世界に入っていく自分を感じる。どうぞ宜しくお引き回しを頂きまして、御教導頂きますように」というお願いであった。・・?の桜井先生もまた見えられた。そしてまあ、二人共あちらへおいでられたわけでございますけれども。そんならどういう霊徳に触れて行きましても、どういうご神徳を受けられましてもです、その受けられるそのもとに成るものは、やはり桜井なら桜井。末永なら末永の、先ず、個人の助かりに有るのです。ね。
 そこで神様は、「さあ右だ、左だ」とお知らせを下さる中にもです、何を一番に願いとして、教導しておられるかということを、本人方は気が付いて居られません。けれども、結局は我情我欲を取らせる働きなのです。いわゆる自分の思いを、人間の小さい考えを取らせるための、神様の働きを受けて居られるのです。我情我欲を離れて、真の大道を分からせて下さっておるわけなのです。
 真の大道を知れよと。真の大道を知るということはです、我情我欲を取らなければ、真の大道を知る事がない。真の大道におりましても、我情我欲があっては、その大道を大道と気付く事が出来ない。ま、そういうように例えば、勝彦の場合でもそうである。自分には気付くか、付かずか知らないけれどもです。ね、そして取次者としての、信心修行にいそしまして、折角、取次者としてのおかげを頂かして貰うならば、どういう信心にならせて頂いたらよいかと。今は今の所だけれども神様は言うておられます。
 『どういう氏子が難儀な問題を持ってきてもです、それをドッコイと自分の信心で受け止めて、神に取次がして頂けれる取次者にならなければならない。為には、欲を捨てなければならない』ということを頂いておりますですね。もうそれを、実に、その噛んでふくめる様に頂いております。ここの御結界に座らせて頂くという事は、お供えを取次ぐ精神どもあっちゃならんと。
 どんな難儀な問題を持ってきてもドッコイと、ここで受け止めれる、いわば力を受けなければならないということを、いろいろな角度から頂いております。この正月にも、お夢に頂いております様に、『どのような毒でも、それを薬に変じて行けれるだけの、いわゆる慈愛の心というものを持たなければならない。』とも頂いております。またこの頃は、『丁度信心はマラソンの選手の様なもので、うまず、たゆまずの修行が必要であるということ。それには只、走れるというだけではなくて、精神力が大事だと。
 心と体。心身をきたわなければならん』ということを、お夢の中にお声を持って頂いております。ね。そういう様な事柄がです、ああした修行の中から少しずつではあるけれども、身に神様が刻み込ませて頂いておるということ。成るほど、あの人なんかは、病気の、自分の体が弱い、病気をしたことが無いですから、そういう難儀は知らない。お金に不自由し、といったような難儀を知らない。いうなら苦労知らずである。
 いうなら大根のように、白うはしておるけれども、それはただ聖護院大根とか、しらすの大根に終わらずにですそれは一枚きざみにです、ね、神様が刻み込んでいって下さっておるものは、何かというと信奉者としての助かり、同時に取次者としての力。それを与えてくださる為に、いうならまあはっきり現れておるところ、十年かがりですたい。まあ、現在のところ十年がかりで、こう教え組んで下さっておるということ。
 昨夜でした。十一時半もございましたでしょうか。今高校生が二人、試験勉強を徹夜で致しております。その頃から起きて来るわけなんです。それでお夜食がしてございます。昨日は何かサンドイッチか何か出来ておりました。最後の御祈念を終わらせて頂きましてから、長女が、「やあ、こりゃ良かもんが出来とる。」まあ一切れ欲しいらしいですね。けど家内がちょっとむこうへ、「朝ご飯もなんも食べんのじゃけん。取っちゃならんよ」と言いよるとです。そんな事私、聞かして頂きながら、ご神前に出た。
 そしたら丁度、愛子がそこに居りましたが、頂くことがですね、『この一枚のパンの功徳によって、あまねく衆生に及ぼす事になる。』それも冗談やら本気やら分からんような表現で頂くんですね。このささやかな功徳がです、あまねく衆生に及ぼす事になると。姉ちゃんが欲しいと言うとるなら、一枚与えれということ。三枚食べるところは二枚にして、一枚姉ちゃんに与えると。
 この功徳によってその事が、あまねく衆生にも及ぼして行ける様な、おかげに成って行くのぞと言う。そのご飯をあの人が頂きよる所で、そんな御理解頂きました。ね。そういう様にして神様がです、もう正しく教えていって下さる。正しくいつの間にかです、いつの間にか信心が身に付いて行くわけなんです。ね。皆さんがこうやって日々信心の稽古をなさっておられると。真心の追求をなさっておられると。
 本気で有り難く成らせて頂きたいと。いいやそうではない、おかげも頂かんならんと思うて参って来よりなさるかも分からん。いやその方が多いかも知れん。けれども、そういう方にはそういう方にです、おかげも見せながら、信心も分からせながら、いつの間にか神様の正しい御守護の中にです、お育てを頂いておられるということ、皆さんが。そうしてです、大変な事なんですねえ。
 それは究極のところ、さっきも申します様に、天地の親神様の願いが成就することの為にです、私どもがお育てを頂いておるという事。気が付いておる付かないはともかくとして、椛目通いをさして頂いている時にそういうものが、私共の心の中に浸透していっておるということそれが事に当たり、または難儀に直面したときです、いつの間にこのように信心が育っておっただろうかという信心が育って居るわけなのです。
 昨日の朝の御祈念の後にでした。熊谷さんが、先日お届けをなさっておられたこと。今日はあちらの屋敷の何か測量があると。上にご親戚がある。下には何か、もと小作人の方か何か、両方がこの尺を打たなければ成らんと言う。だからどうぞ穏便におかげを頂きます様にというお願いが前の日にしてあった。もう穏便を願われるわけなのですね。境のために些細な事で喧嘩口論があったり、心を汚してはならないという事なのです。ところが実に理不尽な、話を聞いておっても。
 いうなら腹の立つような事に成って居るわけなのですねえ。上の方からは上の方から。下の方からは下のほうから。こっちから削られ、こっちから摂取されるといったような事になって居られるわけなのです。実に思うてみると、女一人じゃけんと思うてから、この人どんが付け込んで。というような中におられるということである。けれども、昨日神様にお取次を頂かせてもろうて、穏便に、穏便にというて、お願いしてあるからと思いながらも、これがまたすっきりしないわけですね。
どうでしょうか、皆さんが、そういう場に立たれた時に、その穏便を願われても、言うことだけは言うとかにゃ。きちっとすることだけはしとかにゃということになるでしょうか。どうぞ馬鹿とあほうで、いわば泣き寝入りをするということに成るでしょうか。そしたらですね、神様からこういう事を頂かれるのですね。『それでも熊谷を中心に神が働いた』とこうおっしゃるのです。もう私はこの一言を頂いたときに、ハア、ほんとに素晴らしいことだな、信心とは、とこう思うんです。
 熊谷さんも、その事の御理解を頂かれてから、ほんとに心がスッキリされた。旧家ではある。いわば昔の今でもそうでしょうけれども、まあ財産家なものですからねえ。お金も貸された事もあろう。沢山の余米を取って居られた時代もあろう。それは合法的ではあってもです、やはり随分の折衝になったりして居る事もあろうと。ね。どういうめぐりを作って、その財産が出来たか分からんと言うこと。ねえ。「それでも熊谷を中心に神が働いた」とこう。ね。
 思うてみれば思うてみる程です、たったこの位のことで、そのめぐりのお取り払いを頂けるのなら、たったこの位のことで、大難は小難といったようなことになっておるんなら、どこに、不足どころじゃない。お礼申し上げる以外ないということ。それでも神様は熊谷を中心にお働き下さっておるんだと。願うておる氏子を中心に、神様は働いておられるのだということ。
 私、この事を夕べお話さして頂きながら、何という素晴らしいことだろうか。信心とはこういう意味の事を、いつの間にか、身に付いて来ることだと思うのです。もう理屈じゃないです。そこにいつの間にか私とこの勝彦の場合が、勝彦の場合は、それがハッキリして居りますから、勝彦の例を取りましたけれどもです。ね。勝彦、例えば、子供の時からそんな高度な願いを持ってからのことではなかろうけれども。
 いつの間にかお育てを頂いて、本当のことを本当に正しいままに受けて、日々の信心が、その身に、心に、刻み込まれて居るようにです、皆さんがここに五年または十年、十五年と信心の稽古をなさって居られるうちにです、ね、そういう信心がです、御理解で「ハア、そうだった」と、分からせて頂けれるだけに、信心が成長していきよることをです、有り難いと思わなければならない。
 そしてこれが、いよいよもっと確固たるもの。持っていったその人の助かりが、家の助かりがです、それこそ、あまねく衆生に及ぼすような光ともなって行こうということなのです。いうなら天地の親神様の悲願が、この地上に成就して行くことの働きを、私どももやはり果たさせて頂いて居るということである。信心とは私、そういうようなですね、おかげを頂いていけれる。またそういう自覚。
 そういうおかげ頂いておるという、そこにです、心の安らぎも頂けれる。自分も助かると言うものが、そういうような意味合いに於いての助かるということがです、出来ていくおかげになってこなきゃいけないのじゃないかと、こう思うのですよ。いつの間にか、その我情が、自分の思いというものがですたい、あるようであって、だんだん無くなって行きよる。我欲に【 】なっていきよる。
 そして、ここに真の大道を開き見る事が出来る。その真の大道をです、一歩一歩、歩かせて頂いていくという事が、ねえ、生涯かけて成されて行くときです、こりゃ信心とは、いよいよ大変なことであり、大変なおかげを頂いていきよる事であるというですね、事を皆さん分からせて頂かなければいけない。成程、今の私の願いというのは、ああも在って欲しい。これもお願いせんならん。
 そういう、それは事かも知れませんけれどもです、そういう願いを神様が聞き届けて下さりながらです、そういう高度な信心を、いつの間にか、皆さんの心の中に刻み込んで行きよりなさるということです。ね。そこで私ども、一日も早う、「障子一重がままならん人の身である」とか、ねえ、「神様のおかげを頂かなければ立ち行く事じゃない」というおかげを頂かせてもろうてです、神徳の中にある自分。
 神様の正しい御守護の中にある、いわゆる教祖の神様の御取次の働きの中に在る私ども。そして様々な問題を通してです、それは桜井先生とか、末永先生あたりがですたい、ねえ、神様から様々なお知らせなど頂かれるという。そのお知らせの一つ一つがです、注意をしてみると、その氏子の心の中に在る我情とか我欲を外させるための、【 】場合もあればです、ねぇ、
 それは真実初めから嘘の様な場合もあるけれども、ようく分からせて貰うとです、人間の心の中にある、その我情我欲を外させる為の働きに成っておる事に驚きます。なら熊谷さんの問題でもです、その問題を通して、永年信心の稽古されたところのものがです、ねえ、つい昨日までは、一昨日までは、思うておられた事が、我情であり我欲であったかも知れないけれども、ただ言葉では穏便にと願うておられるけれども、その内容たるや、やはり我情であり我欲であったかも分からないけれども。
 さあその翌日にはです、もう「我が身は神徳の中にある」ところの実感と言うものがです、熊谷を中心にして、お働きを頂いておる神様の働きの中にあるのだと分からせて頂かれるときです、ほんとの心の中の平和があり、そういうあり方が、いよいよ、いわば社会の平和に貢献していかないはずがない。それが【 】はずがない。
 私どもは、もう知ると知らずを問わずです、そういうとにかく正しいお取次の働きの中からです、正しい御守護を受けながら、そういう風に育てられて居るということをひとつ、まあ、機会ある毎にそれを実感させて頂けるおかげを頂いて、そのことに成りきらせて頂くために、信心を進めて行かなければならんと思うのでございます。
(終わり)